仏教思想史(原始仏教~法然)

 原始仏教から法然までの要点をまとめました。浄土教の講義だったので、それに関係ある点しか書いていません。

 

 ゴータマ・シッダールタ(ブッダ)が説いた原始仏教は、大づかみで言えば「すべてのものに実体がないことを悟ることで、この世の苦しみからの脱却を示す」という「覚の宗教」と呼べるものである。

 釈尊の入滅後、教団を形成し上座部・大衆部という2つの派に分かれつつ仏教は続いていった。しかし紀元前2世紀頃から、民衆に近い者たちの中で大乗仏教の運動がおこり、力を持っていった。この大乗仏教は、当時のエリート層が集まり理論的な研究に明け暮れていた部派仏教を批判する形で立ち現れてきた。それは、原始仏教の時代の教え、つまりエリート層以外にこそ開かれた教えを取り戻そうとする動きであるとも言われる。原因が何であったにせよ、大乗仏教は「多くの人々を救う」という他者への指向性とともに生まれてきた「愛の宗教」であるといえる。

 西北インドのガンダーラ周辺で発展した大乗仏教は、その経典を龍樹によって整備される。その龍樹の一部の注釈書にすでに「易行」「念仏」「阿弥陀仏」などの浄土教に通じるアイデアが見られていたが、後の世親によって浄土教がインド仏教思想の一面として成立する。彼の『浄土論』は、その後日本の浄土教にまで受け継がれる重要な論書である。その後、この浄土教中央アジアを越え中国、日本にまで広がっていく。

 中国に仏教が伝えられたのち、中国浄土教を確立した中心は曇鸞道綽、善導がいる。曇鸞は、衆生救済に積極的な阿弥陀仏に寄与することの重要性を強調した。道綽は、末法思想を背景として浄土教を広く世の中に示した。道綽の弟子善導は、それまでの行のうち、阿弥陀仏の名号を称える称名念仏の意義を強調した。これは、彼が『観無量寿経疏』を書いている際、阿弥陀仏の理念が説かれた経典『大無量寿経』の第十八願の重要性に気づいたからである。これは、十方衆生(世界中の人々)が浄土に往生したいと思って、「たとえ十回でも『南無阿弥陀仏』と言ったならば、必ずその人を浄土に連れて行こう」という浄土到達者の決意である。善導は、これがもっとも重要な本願(大本願)であるとした。ここから、善導は「別に浄土を想像する必要はなく、口で言うだけでいい」と結論づけて称名念仏浄土教の最も重要な行とみなした。

 日本では、八世紀前半の時点で知識人たちの間に現世は無常であるとの見方が共有されていたと思われる。そして、それは不変の浄土への関心と表裏一体であった。後の時代になると、天台教団で浄土教の研究が進められた。悟りの実現も修行も実現しなくなるであろう末法(諸説あるが、当時は西暦1052年からと考えられた)の時代に、衆生が救われる手立てとして浄土思想が注目されたのである。この天台宗源信が『往生要集』をあらわし、主に公家たちの間に浄土思想を浸透させた。往生要集では、これから到来する末法の世で救われるための唯一の方法が、浄土への信仰にすがることであると説かれた。

 この平安期に広まった浄土思想には、浄土思想として2つの問題があった。1つは、伽藍の造営や物品の寄進によって浄土への往生が約束されると考えられ、あるいは財力のない者の往生の可能性が考えられていなかったことである。2つは、本来現世を超越した世界として考えられていた浄土が具象化される傾向が見られたことである。これは藤原道長による法成寺阿弥陀堂、その息子の頼通による平等院鳳凰堂の建造などに見られる。

 こうして変容し始めた浄土思想を、本来の姿に引き戻したのが平安末期にあらわれた法然である。彼は、自らが「偏依善導(完全に善導に依拠する)」と語ったほどに善導の解釈を頼りにし、善導の『観無量寿経疏』にある第十八願を真と認めた。そこから、法然は善導と同じく称名念仏浄土教の最も重要な行とした。それは財力の有無に関係なく誰にでも行える方法であり、寄進などが不可能だった人にも浄土への道を開く思想であった。そして、法然は同時に浄土を現世に具現することはできないと説いた。法然の思想により、日本の浄土思想は大きく方向性を修正することとなり、彼の弟子親鸞の思想へとつながっていく。

 法然が、称名念仏のみを救済の道とする専修念仏の立場に立ったことにはいくつかの根拠がある。1つは、「罪悪有力、善根無力」という言葉に表されるとおり、人間の悪性はどうしても滅しがたいものであり、人間が自らの善性によって救われることなど不可能だという人間観によるものである。そうであるなら、人間はその悪性を自覚し、阿弥陀仏の慈悲にすがるのが最も確実な往生への道であることになる。また『選択本願念仏集』には、難易義と勝劣義という2つの根拠が挙げられている。前者は、阿弥陀仏はすべての人を救うために、誰もができる最もシンプルな方法を採用するはずだということである。そして後者は、阿弥陀仏の名号自体に、阿弥陀仏のあらゆる功徳が含まれているということである。「阿」「弥」「陀」の三文字がそれぞれ、天台の根本真理「空」「仮」「中」の三諦に対応する阿弥陀三諦説と類似が見られる(末木2013)。

 

参考文献

末木文美士, 2013年, 浄土思想論, 春秋社.
伊藤益, 2001年, 親鸞―悪の思想, 集英社.