近代ギリシア語の語頭母音の脱落について

 タイトル通りです。

 評価がダメダメだったので、こういうのやる前に言語学の方法論をちゃんと知りたいなと思いました。

 

 

 近代ギリシア語と古典ギリシア語の間には、語頭母音の脱落が多く見られた。その現象は他の言語にも多少なりとも見られることではある(英:amend > mend, 日:いだく>だく(抱く))。しかし、ギリシア語では特に顕著であった。

 近代ギリシア語の語頭母音の脱落については、3つの傾向が関本(1953)により指摘されている。

 [1] 語頭母音にアクセントがない場合に母音は脱落する傾向にある。

  • πεθαίνω, ποθαίνω(死ぬ)< ἀποθαίνω< 古ἀποθνήσκω
  • ρωτῶ(問う)< 古 ἐρωτῶ
  • σπέρα(晩) < 古 ἑσπέρα
  • μέρα(日) < 古 ἡμέρα
  • ψηλός(高い)< 古 ὑψηλός
  • μάτι(目)< 古 ὀμμάτι(ον)
  • δέν(否定詞)< 古 οὐδέν

 これに対し、アクセントを持つ語頭母音は脱落していない。

  • ἄθρωπος < 古 ἄνθρωπος
  • ἔμπορος(商人、古も同形)
  • αἷμα(血、古も同形)
  • ἥλιος(太陽、古も同形)
  • ὕπνος(睡眠、古も同形)

 また、ある語とその派生語がアクセント位置を異にするため、一方は脱落しないが他方は脱落するという場合もある。

  • ἥλιος ― λιοπύρι(太陽熱);αἷμα ― ματώνω(出血する)

 ただしこれらはあくまで優勢な傾向であり、種々の例外が見られることも忘れてはならない。

 [2] 語頭母音の種類によって脱落を被りやすい度合いが異なる。

  関本の調べたところでは、ε,ιの脱落が多く、α,ο,υの脱落はそれより少なかった。*1

 [3] 語頭母音のあとにくる子音の種類により脱落が左右される場合がある。

  ἐρχούμαστε, ἐλπίζω などの場合、アクセント位置にかかわらず語頭母音は脱落しない。これは、ギリシア語の中でρχ-, λπ- などの音列を語頭に用いることが許されていないためと考えられる。

 

 このような語頭母音脱落は、どの程度まで古くに遡ることができるのだろうか。Ψυχάρης*2によれば、すでに西紀後4世紀にμολογῶ (< ὁμολογῶか)なる形が見られ、 西紀後3世紀のパピルス文書にはκαὶ στάμενος(< ἱστάμενοςか)があり、さらに前2世紀にはὁ πελθὼν(< ὑπελθών か)があり、それどころかアリストテレスやデモステネスの著作にすら語頭母音脱落は認められるという。(なお括弧内の推定は筆者による)語彙レベルでの変化の始まりは判然としないが、その萌芽はかなり古くから見られたと言ってよい。

 母音脱落の重要な要因と考えられるものとして、関本は古代ギリシア以来の「母音連続(hiatus)を避ける傾向」を挙げている。古代ギリシア語は、母音連続を避けるために様々な音韻現象が見られることが知られている*3。約音(contraction)、融音(crasis)、省音(elision)などである。語頭音消失(aphaeresis)も、母音連続を避けるための現象の一つであった。これらの音韻現象は、文中の語と語の連続関係において起こるもので、語彙のレベルで起きているものではない(これを関本はsynchroniqueな現象と称する)。しかし、こうした音韻現象がいつしか語彙レベルでの母音脱落を引き起こすに至ったとも考えられる(語彙レベルでの現象を関本はdiachroniqueな現象と称する)。

 synchroniqueな現象がdiachroniqueな現象に至った、つまり文中の状況により起きていた母音脱落が語彙レベルでの母音脱落を引き起こしたという例がある。古ὀδόντιον(ὀδούς「歯」の指小語)は現代では δόντιである。τὸ ὀδόντιον と書かれたとき、τὸの末尾母音が省音されて τ‘ ὀδόντιονとなる。これはあるいはτὸ ‘δόντιονと区切ることもできよう。こうして、δόντιという単語が定着したと考えられるのである (cf. 英: a naddre > an adder) 。

 

 関本によれば、母音脱落の要因と考えられるものはもうひとつある。ピッチアクセントから強勢アクセントへの変化である。これに関してBachtin (1935)は次のように述べる。

 ギリシア語に生じたもう一つの傾向は、これまで見てきた個々の音声要素、要素集合の変化とは較べものにならない意味を持っています。それは、ピッチ(高低)アクセントからストレス(強さ)アクセントへの後退と、母音とシラブルの固定した音量(長短)の放棄で、ギリシア語のリズム-純粋に音量上のリズム-はもともとそこに依存していたのでした。

 この二つの事実は密接に連関し、必然的に同時です。ピッチ・アクセントはアクセントが生じるシラブルの音量に影響しないのです。(確かに、それにある程度依存はしているのですが)。それは単なる高低の違いであって、音量の戯れによって構成される語のリズムには干渉しません。それは別のレベルで作用するのです。他方、ストレス・アクセントはもはやトーンを高めることにはなく、発声を強めることから成り立っていますが、そこには強められた母音を長くし、強められない母音は弱くなり、概して短くならざるを得ないのです。

 Meillet(p.204)によると、母音の長短の区別の消失は、民衆アッティカ語では前五世紀まで遡ることができ、3世紀にはもっと明瞭になります。ちょうどその頃、エジプトのパピュロスでも混乱が現われています。かくしてMeilletの結論では「音量上の区別の感覚は前3世紀以前からギリシア語には失われつつあった」のです。しかし、韻文においては、音量リズムは、ますます文学上の慣習になっていったのですが、長い間厳密に保持されていました。ここで、ギリシア語の実状と妥協しようと言う最初の試みがなされたのは前200年頃のバブリオスであり、バブリオスがシリア人だったことは忘れてはなりません。*4

 

 さらにBachtinは、「ストレス・アクセントは語を全般として縮小し、その語尾を完全に破壊した(Meillet)」という文を引き、その最も顕著な例として英語を挙げている。ギリシア語もストレス・アクセントをもつ言語に変貌したからには、アクセントを核にして語が縮小される傾向を受けているとも考えられる。関本の主張するように、(diachroniqueな)語頭母音脱落はストレス・アクセントへの変化と軌を一にしているように思われる。

 古典ギリシア語と現代ギリシア語の間には2千年以上の隔たりがあり、さらには民衆語と文語の並立、外来語の流入も見られた。したがって語頭母音脱落ひとつをとっても単純な結論を出すことは難しいが、「母音連続(hiatus)を避ける傾向」や、アクセントという韻律的な要素が関係していることは少なくとも確認できた。

 

参考文献

Perseus Digital Library(http://www.perseus.tufts.edu/hopper/

田中美知太郎・松平千秋(2012), 『ギリシア語入門 新装版』, 岩波書店

川原拓雄(2000), 『新版 現代ギリシア語辞典』, リーベル出版

関本至(1953), 「近代ギリシア語の語頭母音の脱落について」『西洋古典學研究』2号, 96-102頁。

Ψυχάρης (1937), Μεγάλη ρωμαϊκη ἐπιστημονικὴ γραμματική, τόμος γ’. (上記論文内の参考文献)

Bachtin.N (1935) , Introduction to the study of modern Greek, Cambridge.

(邦訳:北野雅弘, 『古典研究者のための現代ギリシア語研究入門』

http://www.page.sannet.ne.jp/kitanom/modgre/bakh1.html

*1:現代ギリシア語の母音には強さ(grade)があり, その順位はa, o, u, e, iである。これが脱落の際にも関わってくるのではないかと関本は推測する。

*2:Ψυχάρης (1937) , p.232

*3:田中美知太郎・松平千秋(2012), p.33

*4:Bachtin.N (1935) 邦訳 第2章