今回はツキコについてです。前回のニシムラの片想いをめぐる物語はなかなかシリアスなものではありました。しかし彼女のエピソードは、そのドラマに対して水を差すような読解を提供しているようです。
ニシムラの考えていたことは、第一に「航一と月子は円満なカップルである」ということ、第二に「その航一が欠けてしまうことは、彼女にとって半身を失うにも等しい悲劇である」ということです。ですがこれ以降、この二つには注釈を加えねばならなくなります。ツキコという人間が6巻で初めて行う独白を重く見るのであれば。
まず第一の点です。外形的なところから言うと、ツキコと航一が結局どんな関係にあったのかは、互いの口から明言されていたわけではありません。まあ明言されていないからといって男女交際に至っていないとか好意がないとかいうことにはならないので、それ自体はどうでもいいことですが(この作品は恋愛の機微を描く物語ではありません)。私の妄想によって補完するならば、ツキコはたしかに航一のことを好いていたが、結局自分だけを見てはくれないという不満、あるいは諦観にも似た気持ちを抱えてもいた、決してただの円満なカップルではなかったということが言えるのです。
ツキコが航一に惹かれた理由
航一は、たしかにツキコにとって特別な存在ではありました。地元の塾講師としてツキコと出会いながら、学業に励むことや周囲の期待に応えることについてプレッシャーをかけない彼(5/pp. 16-20)、彼女を下の名前で呼ぶことはない彼(6/p. 35)*1は、出来のいい姉と常に比べられてきた彼女のコンプレックスを癒してくれる存在でした。
正直、私は航一という人間にツキコがそこまで入れ込んだ理由が身に染みて理解できたことはありませんが、彼の言動には魔術的な魅力がある(ように描かれる)のは確かです。人のすること考えることを真っ向から否定するのではなく、かといって理知的な助言をしようとするのでもなく、気の利いた喩えを織り交ぜつつ、イメージからイメージへと渡り歩きながら、手製のポエミックな世界設定に巻き込んだ上で丸ごと肯定してしまう、それがこの物語で描かれるかぎりの彼です。そうした振る舞いは散文よりは詩であり、根本的に反論不可能なものです。彼の詩に反証を提示して退けることはできません。比喩のセンスが悪いといった、趣味についてケチをつけることができるのみです*2。
おそらく、こうした航一の言動がツキコの趣味にがっちりはまったようで、この詩情がまるで彼女のためだけに用意されたように感ぜられたのでしょう。それが、彼は特別な存在だと思うことにつながったとしても不思議はありません(また付け加えるなら、彼は当時のツキコがそこを目指して努力しているところの、憧れの大学生なのです)。結果ツキコは彼に心酔し、その感性に強く影響され、しばしば「星座としての人間関係」を説いてしまうほどにまでなりました(前回の記事を参照)。
彼女の願いは?
ツキコは、航一は自分にだけ特別に心地よい言葉をかけるのだと信じていました。しかし6巻で彼女が回想した通り、航一は心の内に苦しみを抱える人全てに平等に優しいのだということに、間もなく彼女は気づきます。実際、彼は当時小学生だったタビの話し相手となるだけでなく、タビの同級生クロネをもその詩情によって魅了していました。
誰にでも平等に「優しい」ということは
「無関心」と同じ意味ではないかしら(6/p. 44)
「私は
私だけの椅子が欲しかった自分だけの居場所が欲しかった」
(6/p. 42)
彼女が彼を特別だと思うほどには、彼は彼女のことを特別扱いはしなかったのです。彼女の「私のあの頃の日々は… ちっとも幸せじゃなかったのに」(6/p. 53)という回顧は、この意味で解釈されるべきです。二人の関係は、憧れはあるけれども一定の距離以上は近づけないような微妙なものでした。そもそも、かたや「先生」から下の名前呼びに変わり、かたや苗字で呼び続けるということが二人の関係性を表してもいることでしょう。ツキコは彼に心酔しつつも、彼は自分だけの居場所ではない、そうはならないだろうことを分かっていた。そんな曖昧な状況の中に彼女はいました。
ところが、10年にわたるストーキングによって彼女の情報を得ていたはずのニシムラはこうした状況を何も理解しておらず、「彼女は航一といられれば幸せだ」と単純に考えていました。
「彼女の!
彼女の願いは…『コウイチさんとずっと笑ってすごせますように』です――…‼」
(5/pp. 146-147)
これは航一の巻き込まれた事故直後、自分の願いを言えなかったツキコの代わりにニシムラが願いを伝えたシーンの台詞です。自分の思いを脇に置いて彼女のために(との大義のもと)叫ぶ彼には、たしかにある種の格好良さはあるでしょう。しかし私は、この大胆な構図で、大ゴマを使い、これほど豪快に一人の男の空回りが演出されている漫画のシーンを他に知りません。
ニシムラ「僕が願うのは
ツキコちゃんの幸せ」ツキコ (私の幸せ?)
ニシムラ「コウイチさんがいて
ツキコちゃんがずっと笑顔でいられること
それが僕の幸せ」(6/p. 32、協調は引用者)
「ツキコの幸せ」を願っているとしながらも、彼の言葉はいつの間にか「僕の幸せ」で終わっていることを見逃してはなりません。「ツキコは航一といれば幸せだ」という考えは、ニシムラ自身の望む恋愛物語のキャストに二人を配役したものに過ぎなかったのです。自分は求められていないから彼女はほかの男を求めているはずだ、などというのはただの思い込みです。彼女が欲しかったのは恋人ではなく、たとえ(死んだ姉より)劣っていても、生きていてもよいと思える自分自身なのですから。
私は自分の椅子を欲しがってばかりで
誰かの椅子になりたいと思ったことがあったかしら?それは 私が私を座らせるための
私の中につくる椅子それは 私が私を赦すための
私を必要としてくれる椅子(6/pp. 53-56)
「私が私を赦す」ということ、私が思うに途方もない射程を持つこの課題を、ツキコはこの作品内において発見しました。彼女の独白はかなり短いながらも、きちんと彼女自身の物語に区切りをつけ、決定的に新しいものが到来する時間を準備することになっていたのです。
「私だけが生き続けていること」の罪
以上のように考えると「航一が死んでしまうことは、彼女にとって半身を失うにも等しい悲劇である」ということも考え直す必要が出てくるでしょう。たしかに、彼女にとって航一の死はショックではあったけれども、その死が街のループの中で繰り返されれば、ほとんど無感覚になれてしまえるほどのものだったのではないでしょうか。
「私はおまわりさんの魔法が完全に効いているフリをし続けてきた
コウイチさんが事故に遭う一日が繰り返すのを毎日見送っていた」(6/p. 39)
彼女が悲劇のヒロインであるのは、航一を突然に失う運命にあるからではなく、「あの人は死に、自分は生きている」という罪を自覚しつつそこに留まるからです。彼女はこの罪に奇妙な陶酔感すら覚えているとさえ言えるかもしれません。繰り返される航一の死、永遠に終わらない喪の作業を、自分が生き残っている罪への償いとして活用しているのです。彼女が、ループする街をそのままにしていたかった*3のは、航一の死を受け入れたくないからではなく、この贖罪を続けたかったからではないのでしょうか。彼女は救いを求めて手を伸ばすどころか、自分は救われてはならない、より苦しまなければならないとすら思っていなかったでしょうか。自分を救う者がないからではなく、救いを求めるのを自分に許すことができないからこそ、彼女の絶望はより深いのです。
たとえ航一が生きており、ツキコと並んで歩いているときでさえ、彼女の片手は誰の手を取るでもなく、日中はずっと日傘の柄を握りしめています。彼女の姉は死に、自分は生き続けるという罪の徴しである日傘を。
彼女が死んだのは8つの時
日射病だった
帽子をかぶらずに外へ出たのだ
だから私は日傘をさす
これは罰だ私だけが生き続けていること
その罪を私が忘れてしまわないように(6/p. 35)
ここにくると、「ニシムラは、航一の死を抱えたツキコが重すぎると思ったのだろう」*4としたユキタの指摘も、若干的を外しているということができます。彼女が重いとすれば、単に航一の死を経験しているから重いのではなく、姉の死以来「生き残り」としての罪を感じているからこそ重いのです。
「あの人は死に、自分は生きている」という罪の重さ、喪に服すること、私がこういった言葉をツキコの独白に当てはめるのはほとんど勝手な妄想かもしれません。思うに、これらのテーマが十分に展開されるには、彼女の独白はあまりに短かったからです。ただこの作品は、ニシムラ、ツキコ、航一の退屈な三角関係に満足することなく、最終話が近づいてもなおそこから普遍的なものに跳躍しようと試みたのです。それが大きな物語の流れからすれば脱線にすぎなかったとしても、ここまでの野心、すべてを書ききろうとするエネルギーには感嘆するほかありません。
前回、あまりにも美化され神聖化された二人の肖像は、ツキコの独白によって相対化されることとなりました。彼女は美しい恋愛物語の中にはいませんでしたが、かといって嫉妬や独占欲をどぎつく強調した醜い物語の中にいたわけでもありません。まっすぐな情熱の欠けた(ある意味でニシムラとユキタの関係にも似た)割り切れないものの潜む関係を、ツキコは航一と長らく結んでいました。ニシムラの想像力が(この時点ではまだ)そこまで及ばなかったことは仕方がないのかもしれません。しかし、ニシムラとツキコの見事なすれ違いは「他人の願いを他人のために/代わりに願うこと」にすら、自分の欲望が混入せざるを得ないことを表してもいるでしょう。こうした自他境界の揺らぎは、カノコとユキタについての最初の記事でも少し述べたことでした。
『タビと道づれ』、正直ここまで細かく語ることになると予想してはいなかった作品でした。次回は主人公であるタビに少しだけ言及するとともに航一についても軽くまとめ直し、総論的なことを少し加えて締めることにしたいと思います。
*1:作品を読んだ方はご存じでしょうが、ツキコとは本来彼女の死んだ姉の名前であり、彼女の本当の名前は「陽子(ヨウコ)」です。航一が、彼女の本当の名前を知っていたかどうかは定かではありません。
*2:しかし、そうやってケチをつけることにも私はかなり困難を覚えます。彼は漫画の画面全体を味方につけているからです。これを画像なしに伝えることはかなり難しいのですが、構図、天候、描かれる小道具、デフォルメされた図像、そういった画面の構成自体が、彼の詩を全力で支持していることがしばしばあります。一つ一つのコマを見た瞬間、私たちは彼の隠喩を瞬間的に受け入れることになるのです。そして、この人の感性にケチをつける自分がおかしいのではないかという気分にさせられる。そのような威力を発揮している描き方なのです。
*3:正確には、「ループしてはいたが航一の死が回避できなくなった街」です。タビが街に来る以前は、街には雨がなく土砂崩れも起きず、ツキコは航一の死に遭遇することはありませんでした。ループするけれども航一の死は回避できないように、途中から状況が変化していったのです。6/pp. 37-38参照。
*4:「ニシムラさんは 航一さんの死を抱えたツキコさんが重すぎると思ったんでしょう?」(5/p. 158)