『メイド諸君!』を読んで―ご主人様の憂鬱とメイドの献身

 先日『メイド諸君!』を読んでから、得体の知れない気持ちの悪さが亡霊のように回帰し胸の辺りに渦巻いています。思いの外、私はこの作品に打ちのめされた(?)ようでした。そのように、ああ面白かった、で済ませることのできない読書というのがたまにあり、物語に限れば太宰の人間失格以来かもしれないな、と思ったのでした。

メイド諸君!  【新装版】 上巻 (ガムコミックスプラス)

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  そういう気持ち悪さをどうにかしたいというところから書いているので、今回は(も)ゲロを吐き散らかすような文章となっています。しかも無駄に長いです。ご承知おきの程よろしくお願いします。

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古代ギリシア美術の鑑賞チートシート

 古代ギリシア展いつからだっけなあと思っていたらもう明日ですね。期間中に2回くらい行けたらいいなと思っています。

 

 今回は大急ぎで、いつかの講義のテスト用に作ったチートシートをここにまとめます。何が何だかわかりにくい陶器画などの鑑賞のお供にしてください。

 

動作・事物

手でベールをつまむ
うつむき加減になる
女性の慎み深さ
ベールを取って顔を見せる ①女性(の美しさ)
②結婚の場面
手のひらを上にして
相手に向ける
命乞い
シュロの木 トロイアの地である
祭壇に願う 神の名にかけての願い
(その願いは必ず聞かないといけない)
女性の武器(家にあるから)
口元に手 疑い
不安
琴を持ってる男 柔弱な奴(→パリス
円筒形の帽子 女神
両刃の斧 神聖のシンボル
天に向かって
手を差し出す
神への祈り
寝っ転がって食事 ふつうの食事風景
ヒゲ描いてない男 若い男
犠牲のシンボル
鹿 聖獣
翼がある 神(ニケ等)
上を向いて
口を大きく開ける
陶酔し歌う
軍装し、
足を露出している女性
アマゾン族

 

アトリビュート

(特定の人・神の目印となる持ち物)

ライオンの皮
棍棒
ヘラクレス
旅行用の帽子 ヘルメス
月桂冠
アポロン
軍装+ロングスカート(?)
アイギスの盾(ゴルゴンの首)
アテナ

キヅタ
ブドウ
ロバに乗る
サテュロスマイナデスを伴う
ディオニュソス

 

 以上です。講義で言われたことをそのまま書き写しただけなので合ってる保証はできません。例外とかいくらでもあると思うので目安ですね。

 こういう受験勉強みたいな機械的なのは芸術鑑賞の冒涜と言われるかもしれませんが、知ったことではありません。鑑賞の場面で、何の前情報に頼らずとも作品だけをじっと見ていれば、素晴らしいインスピレーションが降りてきて想像がどこまでも広がるみたいな夢は正直あまり信じられません(私の貧困な感性ゆえに)。必要な人は必要ですし、そうでない人はそうでない。文化資本とは何ですか? 後で勉強します。

 

親鸞の生涯と思想

ある講義のノート再利用。

 

親鸞の生涯

 親鸞は、承安3(1173)年に京都日野の里に生まれた。9歳のとき青蓮院の慈円のもとに得度するが、これは当時源氏と組んでいた以仁王親鸞の家系が関係していたため、平氏の追求を逃れるという目的があったと推測される。以後20年間天台教団の中で修行を続けるが、己の罪業意識に悩み続ける。夢告に導かれて、法然の教えに目覚めて彼の弟子になった。
 法然の専修念仏の教えは、弥陀以外の諸仏を軽んじている、持戒を軽視しているとして旧仏教側から危険視されていた。そんな中、建永元(1206)年、法然門下の安楽、住蓮という僧が法会で女官と通じるというスキャンダルを起こす。後鳥羽上皇は、2人の僧を斬罪に処し、法然とその門下を流罪・死罪とした(「建永の法難」)。法然親鸞もそれぞれ配流となる。越後に流された親鸞は、法然に帰依していた九条兼実の家が持つ荘園の荘官を務めていた三善家に保護される。親鸞は、この家に縁のあった恵信尼と結婚する。この時、彼は僧籍を剥奪されており、以後、終生「非僧非俗」という立場をとることになった。
 法然親鸞の罪は建暦元(1211)年に赦免されるが、親鸞は京都へは戻らず、しばらくして関東の常陸国笠間郡稲田郷に草庵を構えて布教活動を始めた。この地を親鸞が選んだのは、、この近隣に三善家の所領があり越後からの開拓民が多く来ていたと考えられるのが1つ、鹿島神宮一切経を閲覧するためかと考えられる。一切経を参照しながら、親鸞は『教行信証』の執筆も進めた。
 親鸞は、20年余りを稲田郷で過ごすが、63歳のとき妻子を伴って京都に帰った。知人の寺に寄宿して暮らすが、恵信尼はしばらくして越後に帰ってしまう。
 晩年、親鸞の教えは関東の門徒たちの間で誤解され、悪人こそが往生するなら悪行を働いても構わないと考える者たちが多数現れた。親鸞は息男の善鸞を関東に派遣し、異説・異議を斥けようとした。しかし実際、善鸞親鸞の教えと全く真逆の教えを広めており、親鸞は建長8(1256)年、84歳のとき、善鸞に義絶を告げた。最晩年には和讃なども作りながら、弘長2年11月28日、寄宿先の善法院で生涯を終えた。

親鸞の思想

悪人正機説

 親鸞の思想としてよく知られるのは、「悪人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや」という言葉で表される、「悪人正機説」である。しかし、この言葉は、法然の『法然上人伝記』や、浄土宗の排斥にかんでいた法相宗の貞慶も、悪人こそ救われるという思想は見られている。悪人正機説親鸞の独創ではなく、当時の仏教全体の通念だったようである。むしろ親鸞の独創性は、『歎異抄』第三条で、善人は弥陀の本願の対象ではないと述べていることにある。善人の往生を否定する言説は類を見ない。

悪人とは誰か?

 善人は救われず、悪人だけが救われるという主張は、一見、倫理的に破綻した「破戒の論理」であるように思われる。親鸞が単純にこのような主張をしたとは考えられず、この破戒の論理には様々な解釈が為されてきた。中にはこれは親鸞の主張ではないとする解釈もあるが、それはありそうにないものである。問題は、むしろ「悪人」とあるが、どのような意味の悪なのかということである。

存在にまつわる悪

 この悪とは、自分が単に存在し続けているだけで、人間も含め他の生き物の命と居場所を奪い取ってしまっているということの悪さ、存在にまつわる悪である。インドの如来蔵思想(すべての動物が物性を持つ)は、日本で物活論的な霊魂観と融合し、すべての生命に物性が宿るという思想になっていた。親鸞もこの思想を持っていたことが推測される。すると、食事をするだけでも、他の多くの生き物の仏性を奪うことになる。特に仏教徒でなくとも、何の罪もない他人の職を奪うという排除の構造に私たちはいるのであり、かりに社会で排除されるのみの人間であっても、食事をするだけで他の生命を殺しているので悪である。
 つまり、人間は生きている限り、例外なくこの意味で「悪人」であり、善人など実際は存在していないのだ。すると、先の、往生できないはずの善人とは誰かというと、その逃れようのない悪を抱えていることを自覚しておらず、自分が悪人だとは思いもしない者のことであると考えられる。これに対して、悪人は、この悪を自覚し慚愧している者である。後者が往生できるのは当然のことである。

信心の困難と救い

 ただ生きているだけでも悪人ではあるが、そのほかの悪行ももちろん考えられる。しかし、この悪は人間が意図的に回避できるというようには、親鸞は考えていない。人間の力を超えた運命、宿業しだいでは、つい千人でも人を殺してしまうことがありうる。人間は、為すべきことをなしえないという意味で無力であり、救済を信じて祈ることすら貫徹できない存在である。この信心すら、阿弥陀仏によって与えられるものであると親鸞は主張する。
 信心は、しかるべき時、つまり自分が悪をできるだけ回避しようと頑張っても限界を感じ「わかっちゃいるけどやめられない」ことを実感した瞬間に与えられるだろう。そこで、心から阿弥陀仏の存在を信じることが、救いへの唯一の道なのである。

 

高校時代の自虐論まとめ 補足

  前回の記事について、いつも読んでくれている方から何点か指摘をもらったので補足します。

dismal-dusk.hatenablog.com

 

・自虐と自己批判とはどう違うのか。

 自己批判は多くの場合、自分の間違いを修正しよりよい方向に変わろう、少なくとも間違いを避けようというときに行われます。
 自虐も自己批判の一種かもしれませんが、必ずしも何か変わろうという態度は伴いません。自分の欠点に関して分析を行うことにはなりますが、改善するかは別問題となります。分析し公開したことで自己像を確かめ、むしろそこに安住してしまうことのほうが多そうです(「自傷的自己愛としての自虐」参照)。

 

自虐と単なる言い訳は違う?

 上のような態度で行われている自虐は、行動しないための言い訳であると言うことができます。自分の欠点はわかっているが、変えられない……そしてそれが自分の欠点でもあり……と無限に自虐をループさせることが可能で、そのようなことを実際にやっていたようでした。(「わかっているのに変えられないというのは、本当に分かってはいないのだ」というテーゼを持ち出せば話は違いますけども。こうした言い分を知りたい人はプラトンプロタゴラス』等を読んでください。というかそれしか文献知らないので、もっと明快な解説書とかあったら誰か教えてください)

 

・苦しみや悩みを語る行為も自虐に含まれる?

 含まれます。ただ、その中に自分についての言及が少しでも入っていることが必要だと高校時代の私は主張していたようです。

 例えば、単に「人付き合いが嫌」というのではなく、「人付き合いをすると『私の性質により』嫌な思いをする」と書くのが自虐です。苦しみや悩みの原因が自分にあるとする。

 

・他者をコントロールすることはできなかったとしても、他者に対する不平不満を陰口として言うことはできる。そうしなかったのはなぜ?

 誰か特定の人が気に食わないとか、そういう心境ではあまりなかったのかもしれないと思います。自分以外は有象無象という感じで。しかも、その有象無象は千里眼的な権能を持っており私の発言の全てを監視していました。有象無象とは、「学校の友人」だとか「家族」だとか、なにかしら属性でくくることのできない、場所を選ばない全てのひとびとなのです。したがって私が自由に振る舞える領域はTwitter上にもありませんでした。リアルの友人が見ていなかろうと鍵がかかっていようと、自分以外の陰口を叩いただけでも自分になんらかの災いが降りかかるという強迫観念に近いものがあったと思います。

 あとは、たぶん自分が悪いとしてしまったほうが楽だからです。不平不満の原因を自分以外に帰すと、自分以外のものを観察しなければならなくなりますが、他人とあまり話さない場合そうした観察も進まないので。

 

 元がごちゃごちゃと連続ツイートしていただけなので分かりやすくまとめることに困難もありますが、質問に答える形だと自分の中でも整理がつきました。質問をもらえるのはありがたいことです。

 しかし、前回からやってきた過去に感じ考えていたことの再構成というのは失敗せざるを得ないなというのは最近思うことで、これについてはまた後ほど書きたいと思います。

高校時代の自虐論まとめ―自虐と他者

 高校時代にツイートしていた理屈を分類しつつ供養しようと思う。一度まとめようと思って放置していたが再開した。
 どうやら前提となる考え方が大きく分けて2つあり、そこから自虐という振る舞いがある種の自己救済の試み(?)として掲げられるようだった。

 

前提1:苦しみは自分だけのもの

すべては何が問題かといえば、自分とは立場が違う者への無理解、無寛容、無知、これに尽きる。当事者意識が持てない奴等の増殖、他者を思いやれない慮れない奴等の増殖、全てはこれ。これで全てが説明できると思う。人間の劣化だ。機械は発達しデータは増えたが、それを扱う人間自身が劣化しまくってる

 という人のツイートに対して、当時の私は次のようなことを言っていた。

たしかに、色々な境遇の人の苦しみを知ることは十分に可能です。でも、所詮「他人」が知ったところでその苦しみを減らすことも、自分のことのように苦しむこともできないのです。
それで辛気臭い気分になるだけなら知らなくて良い、という気持ちがあるのではないでしょうか。
私は苦しんでいる人を見ると、私と他人との果てしない断絶を感じるのです。どうせ私に他人の苦しみなど理解できない。自分の苦しみは自分だけのもので、他人の苦しみは他人だけのものであるという思いがあります。
だから他人の生き様を貶めたり、憧れたりといったことが等しく無意味に思えるのです。

幸せが人それぞれであるように、苦しみも人それぞれ、自分だけのものだと思いたいですね。
大きい小さいに関係なく、誰にも理解されなくても、「私はこれが苦しい」と自信を持って言いたいものですね。

他人の苦しみは情報として知ることはできますが、同情を向けたり、相手の苦しさを勝手に想像する必要は無いのではないかと思います。

 同じ悩みを持っている人となら、本当に理解し合えるのではないかと思った時期もありましたが、そもそも自分と全く同じ悩みを持っている人など見つからないことに気づきました。

 共通するものもあるが、多くは自分に固有のものだという。それはなぜか? ……個々の人生経験に由来するからだと考えているらしい。「自分が自分であることが苦しい」という表現も他のツイートに見られる。

 苦しみがこのようなものだと考えるならば、他人のそれを知った気になっても(情報は得ることができるが)、軽減することも同様に体験することも不可能だという。

 どうしても、他人について分かった気になることは罪だという考えがあるらしい。

他人の前で落ち込んだ時点で負けだということでしょうか。どうせ自分の苦しみに他人は手を出せないのですから。
だから、上手くやれる人はつらいときでもヘラヘラ笑っているのでしょう。私は無理でした。

 同様に、自分自身が他人の前でつらいつらいと落ち込むことにも意味がないと考えている。そんなことをしても苦しみは変わらない。適切な応答などけっして為されないからである。 
 
・それでも鬱々と語ることをやめられない
 

前提2:コントロールできない他者

 私は、他人をハリボテのように見てはいけないと思っています。それは相手を思いやるという意味からではありません。他人は絶対に自分の思い通りにならない。私の望むところを決して実現してくれず、望まないところを積極的に為してくる。まるで荒神のような、無限に恐ろしい存在であるからです。
 他人は、私にとって神にも等しい存在なのです。私は荒ぶる神を鎮めることはできず、じりじりと身を引きながら、供物を捧げ、懸命に祈り、災いが通り過ぎるのを待つほかないのです。地震や雷や暴風を起こす天地自然に対して、泣いても喚いても無駄なのです。
 私にとって、全ての他人は神なのです。付き合うにも七面倒な儀式が要り、私の声が本当に届いているのかは決して分からない。対等に話し合い了解し合えるヒトなど、どこにもいない(もしくは私にその能力がない)。まして、形式なしに付き合えて、何でも聞き届けてくれる奴隷は尚更いないでしょう。
 なんとも極端な他者観で、中途半端な私には相応しくないようにも思われますが、常に他者を私のコントロール外のものとして畏れることは、他人への攻撃性を解除し、人間として歩み寄る努力を放棄する言い訳にもなる、忍従的クズの必死の知恵なのです。
 よく親に「他人は自分の思い通りにならないよ」と言われていたんですが、私は「じゃあ他人に私の話を聞いてもらおうとか、分かってもらおうとかいうのは無駄なんだな」と曲解して、実際その通りだったので、いつの間にかこういう考え方になっていました。
 親の意図は単に「傲慢になりすぎるな」ということだったのだと思いますけど。それが屈折して虚無主義的に解釈されてしまったのでしょうか。 なるほど、たしかに私は親の思い通りには育ちませんでしたね。「他人は自分の思い通りにはならない」ええ、まさにその通りなのです。

  自分でも言っているが、極端な、恐るべき他者という考え方が出ている。その源泉を親の口癖に帰しているが、それだけではないだろうと思う。

 コントロールできない他者とは言っても、当時の自分が「攻撃性を解除」と言っているように、暴力によって服従させることもいつも可能ではあった(「他者とは私が殺したいと意欲しうる唯一の存在者なのである」)。しかし多くの場面でそうした行動は選ぶことがなかった(自分が暴力をふるったときというのは、多くの場合それを暴力だと自覚せずに行っていた)。なぜあからさまに力に訴えなかったのかは明らかではない。
 
 
 これらの前提を通過した後、ツイートの内容は自虐そのもの、もしくは自虐する際の態度について語るものが増える。
 
・自虐の弊害

そうなんですよね。自虐の弊害は、それを見た人が「自分のこと言われてるみたい」と感じてしまうことです。

 でもやめないらしい。

ごめんなさい。私は俗物ですから、残念ながら私の同類もたくさんいることと思います。ですが、自虐はやめられません。

 

・なぜ自虐するのか?

私は自分の負の感情を、自虐や小説の内容として戯画化して、常にそれに酔っているようなところがあったんですけど、それがいつまで保つかなと恐れてもいます。

自分がクズであることをアイデンティティに据えるとは、そういう行為を言うのです。悲劇の主人公でも、哀れな道化でもいいから、何者かになりたい。大好きな自分が消滅してしまうのが嫌なんですね。

自虐も、自分語りには違いないですから。

でも、そういう自分語りが他人にとっては塵ほどの価値もないことも分かっていて、 周りからしたら「ぐだぐだ自分のクズさを語ってないで変える努力をしたらどうなんだ」という感じだと思うんですけど、それができたら苦労しませんよね。

「自分の無能さ、愚図さを弁解するな」と言われたら、「さっさと死ね」「自殺しろ」ってことだと解釈します。言い訳は私の生命線なのです。

立派な自分を誇っていたら、叩かれたとき余計につらい。ただ、それでも私の臆病な自尊心は誇れる自分を要求する。そこで「クズな自分を誇る」という、苦しまぎれの、姑息な、矛盾した自己愛が生まれたのです。

幼児期に根拠のない全能感を膨らませ、後にその伸びすぎた鼻をへし折られた経験が、トラウマになるほど恐ろしかったのです。
クズを名乗り、あらかじめ自分にマイナス評価をつけておく。誰かに貶されるくらいなら自分で貶す。結局、私は一番可愛い自分自身を、他人の非難から守りたいだけなのだと思います。

私がよく使う「クズ」というのは、意志が弱いとか、ネガティブ思考だとか、行動力がないといった「様々なマイナス評価のついた私」を示しています。たいてい他の人のことは想定していません。
「自分を変えろ」とか「考え方を変えろ」という言葉は、私にとっては「赤ん坊からやり直せ」という罵倒にしか聴こえないのです。今の自分を殺して生まれ変われ、と。

  自己愛と自虐は切り離せないもので、これは以下の中でも言及したことです。

dismal-dusk.hatenablog.com

 

・自虐は自己完結すべき

色々なツイートの中に自虐的なツイートを混ぜておくと、見事にそのツイートだけ反応がゼロになります。 いい感じですね。自虐は無視されてこそ成功です。ウケてしまってはいけません。

自分ばかり見ていて他人が見えていない、そのくらい徹底した自分語りが自虐なのです。 他人を視野に入れ、社交の心を持って自分を下げる言葉は、全て「謙遜」と呼ぶべきでしょう。

私は、いわゆる「自虐ネタ」「自虐風自慢」は、本当の自虐ではないと思っています。 本来、自虐とは一人でも完結するものなのです。部屋の壁に向かって、延々語りかけるような心持ちで行うのが正しい。当然、壁は何も応えてくれません。私の Twitterもそんな感じでやっています。

あと、「自虐ネタ」ってなんでしょう。自虐することで笑いを取れるというんでしょうか。もしそうなら私はとっくに人気者じゃないですか。自虐は惨めでウザくて、人の笑顔を凍り付かせてナンボだと思いますが。

承認を目的とせずに行えること、つまり、どんなに頑張っても絶対に他人から無視される (ちやほやされない)行為といえば、やはり自虐や、役に立たない哲学的思索が挙げられると思います。

 

・批判・誹謗中傷に比べ非社交的な行為

自分がクズなのはその通りですが、他人の足を引っ張ろうとしてはいけませんね。「私はクズだ」で止めるのが自虐の必須要件です。「私はクズだ、その点他人は……」と、自分と他人を並べた瞬間に、嫉妬の心が現れる。
自分はクズだ、持たざる者だという思いが他人に向かうと、僻みや嫉妬の言葉になって現れるのです。

でもまあ、批判的・攻撃的な言葉にRTが集中するあたり、やはり批判や誹謗中傷は「受けがいい」んですよね。みんなで悪口を言うのは、どこの世界でもコミュニケーションの基本なのだろうと思います。

対して、自虐は全く非社交的な行為です。自ら発して自分に帰る、私もそれを意図しているので、本来は他人の入り込む必要性もないのです。
それでも私が自虐を公開しているのは、ただの自己満足です。露出狂みたいなものでしょうか。放っておいていただけるのが誰にとっても良いと思います。

 なぜ「部屋の壁に向かう『ような』気持ち」であって、実際に壁に向かってしゃべるだけでは飽きたらないのか。インターネットもメールも携帯も人間との接触がなくても自虐は可能か。誰も見物人がいない場合に露出狂は露出狂でありうるか。

 また、「無視される」というのも誰かの視線を前提しているのだから、応答ではないのだろうか。

 それはともかく。

 

・自虐は、「苦しみ競争」からの逃走手段

天才には凡人の苦悩が分からないだとか、天才には天才なりの苦悩があるというのは、よく言われますよね。「みんな固有の苦しみを抱えていて、それらは互いに比べられない」ということではないかと、私は想像するのです。
 でも「おまえより私の方がずっとつらい。おまえの苦しみは軽い(だから私はおまえを憎んでよい)」とか「こいつの苦しみに比べたら、自分はまだ恵まれてるほうだな」といった、苦しみに優劣をつけて何とか自分の精神的利益をせしめたいという気持ちも、私の中に確実にあるのです。たぶん、他の人にも。
 私はクズなので「苦しみの相互尊重」なんていう立派な理想を本気で信じることができませんし、それを実践できているとも思いません。いつでも私は、勝手な想像と比較による「苦しみ競争」に参加しているのです。無駄なことだと思っていても、いつの間にか。
 私は、なるべく他人との苦しみ競争からは距離を取っていたい(不毛なので)。しかし同時に、自分の苦しみを吐き出したくもある。そんなときは、社交を控えて自分の苦しみを語ることに専念しようと思うのです。自虐するときと同じく、部屋に引きこもり、壁に向かって延々と語るような気持ちで。
 苦しみを語ることも、自虐も、競争ではないのです。他人の事情は二の次三の次です。それを公開する場合にも、自分の恥部を見せるということに意味があるのです。露出狂は、露出したらそれで満足しなければならない。たとえ無視されようと、「おまえ、小さいな」とか言われようと、関係ないんです。

  これは前提1が強く意識されていると思われる。

 

・なぜ自虐の語り口を工夫するのか?

 ただ、苦しみを語るときの語り口というのは考える余地がありますね。自分だけが分かる言葉で語るなら、一言「つらい」でも十分なわけです。「もし別の誰かに伝えたとき、伝わるような言葉で」語ろうとすると、自分の矛盾や、理屈では説明がつかない部分がはっきりし、苦しみがクリアに見えるのです。
 苦しみを語るために工夫をこらすのは、あくまで自分のためだと思うようにしたいですね。その巧みさで他人にチヤホヤされようとか思うと、そのためにいくらでも苦しさを演出するようになり、鬱陶しい不幸自慢しかできなくなる。苦しみを語るというのは本当に難しいものです。

 

 不思議なのは、なぜここまで、承認を目的としないことや非社交性を強調するのかということだ。自虐から他人を締め出そうと苦闘しているのはなぜか?

 それは先の記事にも書いたが、承認欲求に素直であることへの軽蔑、出る杭は打たれるという規範の内面化があるだろう。それはもうどこまでもルサンチマンなのだけども。

 また、結局は人は誰かに助けられることはできず、自分で勝手に助かるしかないという信念も理由の一つだろう。その人にしか手を出せない苦しみというのは確かにある(これらの信念は、付け加える点はあるにしろ今でも大して変わらない)。その種の苦しみを分かった気になられたり逆に説教を受けたりすることは、救いどころか傷口に塩を塗りこまれることだ。そのリスクを回避しようとするあまり、自虐する態度について必死に但し書きをつけることになった。

 

 ただそもそもの話になるが、どうしてそこまで注意しつつ自虐を公開せねばならなかったのか。もし、自虐が他人から分離できるのならば、なぜ一連のツイートをチラシの裏に書き留めて終わりにしなかったのか(もっと言えば、頭のなかで唱えて満足しなかったのか)……この問いにかつての私は結局答えなかった。自分が凡人だからとか、クズだからとか、露出狂というレトリックは答えになっていない。「凡人」や「クズ」や「露出狂」が、なぜ他人に自虐を公開したいという欲求を持つのかを説明していないからである。

 自虐をチラシの裏に書き留めて終わりにすることが不可能であるとしたら、それはどのような種類の不可能性だろうか。それは、ある思想家が述べる、他者に対する責任から逃れられないという不可能性とパラレルなものだろうか。

 ↑違うと思う。

 

 疲れたので続きはまた後で。

 

 「自分の恥部を見せるということに意味がある」という言い方はある意味当たっている。近代の私小説とは自分の性愛の遍歴を晒すものであった。自己を語ることとは自己のセクシュアリティを語ることだった。今でもそういう側面あるだろうか。

 他人を自分の姿を映し出すための鏡とみるのと、自己をこえた何かとみるのでは全然違う。行動としては前者を前提しており、主張内容としては後者だった?

 

 子どもを産み続ける(生物学的な意味には限らず)かぎりで、主体である。★散種?

大好きな自分が消滅してしまうのが嫌