親鸞の生涯と思想

ある講義のノート再利用。

 

親鸞の生涯

 親鸞は、承安3(1173)年に京都日野の里に生まれた。9歳のとき青蓮院の慈円のもとに得度するが、これは当時源氏と組んでいた以仁王親鸞の家系が関係していたため、平氏の追求を逃れるという目的があったと推測される。以後20年間天台教団の中で修行を続けるが、己の罪業意識に悩み続ける。夢告に導かれて、法然の教えに目覚めて彼の弟子になった。
 法然の専修念仏の教えは、弥陀以外の諸仏を軽んじている、持戒を軽視しているとして旧仏教側から危険視されていた。そんな中、建永元(1206)年、法然門下の安楽、住蓮という僧が法会で女官と通じるというスキャンダルを起こす。後鳥羽上皇は、2人の僧を斬罪に処し、法然とその門下を流罪・死罪とした(「建永の法難」)。法然親鸞もそれぞれ配流となる。越後に流された親鸞は、法然に帰依していた九条兼実の家が持つ荘園の荘官を務めていた三善家に保護される。親鸞は、この家に縁のあった恵信尼と結婚する。この時、彼は僧籍を剥奪されており、以後、終生「非僧非俗」という立場をとることになった。
 法然親鸞の罪は建暦元(1211)年に赦免されるが、親鸞は京都へは戻らず、しばらくして関東の常陸国笠間郡稲田郷に草庵を構えて布教活動を始めた。この地を親鸞が選んだのは、、この近隣に三善家の所領があり越後からの開拓民が多く来ていたと考えられるのが1つ、鹿島神宮一切経を閲覧するためかと考えられる。一切経を参照しながら、親鸞は『教行信証』の執筆も進めた。
 親鸞は、20年余りを稲田郷で過ごすが、63歳のとき妻子を伴って京都に帰った。知人の寺に寄宿して暮らすが、恵信尼はしばらくして越後に帰ってしまう。
 晩年、親鸞の教えは関東の門徒たちの間で誤解され、悪人こそが往生するなら悪行を働いても構わないと考える者たちが多数現れた。親鸞は息男の善鸞を関東に派遣し、異説・異議を斥けようとした。しかし実際、善鸞親鸞の教えと全く真逆の教えを広めており、親鸞は建長8(1256)年、84歳のとき、善鸞に義絶を告げた。最晩年には和讃なども作りながら、弘長2年11月28日、寄宿先の善法院で生涯を終えた。

親鸞の思想

悪人正機説

 親鸞の思想としてよく知られるのは、「悪人なほもつて往生を遂ぐ。いはんや、悪人をや」という言葉で表される、「悪人正機説」である。しかし、この言葉は、法然の『法然上人伝記』や、浄土宗の排斥にかんでいた法相宗の貞慶も、悪人こそ救われるという思想は見られている。悪人正機説親鸞の独創ではなく、当時の仏教全体の通念だったようである。むしろ親鸞の独創性は、『歎異抄』第三条で、善人は弥陀の本願の対象ではないと述べていることにある。善人の往生を否定する言説は類を見ない。

悪人とは誰か?

 善人は救われず、悪人だけが救われるという主張は、一見、倫理的に破綻した「破戒の論理」であるように思われる。親鸞が単純にこのような主張をしたとは考えられず、この破戒の論理には様々な解釈が為されてきた。中にはこれは親鸞の主張ではないとする解釈もあるが、それはありそうにないものである。問題は、むしろ「悪人」とあるが、どのような意味の悪なのかということである。

存在にまつわる悪

 この悪とは、自分が単に存在し続けているだけで、人間も含め他の生き物の命と居場所を奪い取ってしまっているということの悪さ、存在にまつわる悪である。インドの如来蔵思想(すべての動物が物性を持つ)は、日本で物活論的な霊魂観と融合し、すべての生命に物性が宿るという思想になっていた。親鸞もこの思想を持っていたことが推測される。すると、食事をするだけでも、他の多くの生き物の仏性を奪うことになる。特に仏教徒でなくとも、何の罪もない他人の職を奪うという排除の構造に私たちはいるのであり、かりに社会で排除されるのみの人間であっても、食事をするだけで他の生命を殺しているので悪である。
 つまり、人間は生きている限り、例外なくこの意味で「悪人」であり、善人など実際は存在していないのだ。すると、先の、往生できないはずの善人とは誰かというと、その逃れようのない悪を抱えていることを自覚しておらず、自分が悪人だとは思いもしない者のことであると考えられる。これに対して、悪人は、この悪を自覚し慚愧している者である。後者が往生できるのは当然のことである。

信心の困難と救い

 ただ生きているだけでも悪人ではあるが、そのほかの悪行ももちろん考えられる。しかし、この悪は人間が意図的に回避できるというようには、親鸞は考えていない。人間の力を超えた運命、宿業しだいでは、つい千人でも人を殺してしまうことがありうる。人間は、為すべきことをなしえないという意味で無力であり、救済を信じて祈ることすら貫徹できない存在である。この信心すら、阿弥陀仏によって与えられるものであると親鸞は主張する。
 信心は、しかるべき時、つまり自分が悪をできるだけ回避しようと頑張っても限界を感じ「わかっちゃいるけどやめられない」ことを実感した瞬間に与えられるだろう。そこで、心から阿弥陀仏の存在を信じることが、救いへの唯一の道なのである。

 

高校時代の自虐論まとめ 補足

  前回の記事について、いつも読んでくれている方から何点か指摘をもらったので補足します。

dismal-dusk.hatenablog.com

 

・自虐と自己批判とはどう違うのか。

 自己批判は多くの場合、自分の間違いを修正しよりよい方向に変わろう、少なくとも間違いを避けようというときに行われます。
 自虐も自己批判の一種かもしれませんが、必ずしも何か変わろうという態度は伴いません。自分の欠点に関して分析を行うことにはなりますが、改善するかは別問題となります。分析し公開したことで自己像を確かめ、むしろそこに安住してしまうことのほうが多そうです(「自傷的自己愛としての自虐」参照)。

 

・自虐と単なる言い訳は違う?

 上のような態度で行われている自虐は、行動しないための言い訳であると言うことができます。自分の欠点はわかっているが、変えられない……そしてそれが自分の欠点でもあり……と無限に自虐をループさせることが可能で、そのようなことを実際にやっていたようでした。(「わかっているのに変えられないというのは、本当に分かってはいないのだ」というテーゼを持ち出せば話は違いますけども。こうした言い分を知りたい人はプラトンプロタゴラス』等を読んでください。というかそれしか文献知らないので、もっと明快な解説書とかあったら誰か教えてください)

 

・苦しみや悩みを語る行為も自虐に含まれる?

 含まれます。ただ、その中に自分についての言及が少しでも入っていることが必要だと高校時代の私は主張していたようです。

 例えば、単に「人付き合いが嫌」というのではなく、「人付き合いをすると『私の性質により』嫌な思いをする」と書くのが自虐です。苦しみや悩みの原因が自分にあるとする。

 

・他者をコントロールすることはできなかったとしても、他者に対する不平不満を陰口として言うことはできる。そうしなかったのはなぜ?

 誰か特定の人が気に食わないとか、そういう心境ではあまりなかったのかもしれないと思います。自分以外は有象無象という感じで。しかも、その有象無象は千里眼的な権能を持っており私の発言の全てを監視していました。有象無象とは、「学校の友人」だとか「家族」だとか、なにかしら属性でくくることのできない、場所を選ばない全てのひとびとなのです。したがって私が自由に振る舞える領域はTwitter上にもありませんでした。リアルの友人が見ていなかろうと鍵がかかっていようと、自分以外の陰口を叩いただけでも自分になんらかの災いが降りかかるという強迫観念に近いものがあったと思います。

 あとは、たぶん自分が悪いとしてしまったほうが楽だからです。不平不満の原因を自分以外に帰すと、自分以外のものを観察しなければならなくなりますが、他人とあまり話さない場合そうした観察も進まないので。

 

 元がごちゃごちゃと連続ツイートしていただけなので分かりやすくまとめることに困難もありますが、質問に答える形だと自分の中でも整理がつきました。質問をもらえるのはありがたいことです。

 しかし、前回からやってきた過去に感じ考えていたことの再構成というのは失敗せざるを得ないなというのは最近思うことで、これについてはまた後ほど書きたいと思います。