「自分に厳しく、他人に優しく」から始まる思考実験

 「自分に厳しく、他人に優しく」。どこかしらで耳にするひとつの道徳的な教えかと思います。私たち若者の中にはスレた輩も多く、そんなことを大っぴらに口にするのはどこか憚られる雰囲気もありますけれども、周りによく話を聞いてみればそれを格率としていると主張する人はいるようでした。今回はそういった人と話した事柄について少しばかり考えてみたいと思います。

 先にことわっておきますと、明快な結論や「私が特に言いたいこと」というのは書かれてないです。

 

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イキイキとした活動と躊躇いと俯きがちな人

 

 記事の内容や敬体の末尾表現にすらロクに統一性がないこのブログ、初めてブログっぽく日々思ったことを適当に書きます。

 最初に思いついたのは、何に関してでも、躊躇いが無くなった瞬間というのが一番狂ってて物騒なのだろうということです。感情任せにそうなるにしても、理屈に従った結果そうなるにしても。選択は一つの狂気であるとかいう言葉を誰かが言ってたのもあり(誰だったかは完全に忘れてしまった)そういう方向に思考が向きました。

 また、なんでそんなに躊躇いなく行動できるのだろう、またどうして私はいつまでもそういう反射神経が身につかずためらってばかりなのだろう、と思った事例をつらつら書いたのが以下です。

 

デモ参加の思い出

 去年の夏、国会前で件の法案に関するデモが行われていたのはまだ記憶に新しいと思います。私は、とある成り行きからそのデモに行くことになり、9月18日の夜2時間ほど一通り見て回ってきました。私も何か書かれた厚紙を持ち、周りのコールを一応そのまま復唱し、立派ないち参加者に見えたかもしれませんが、なぜこれほどイキイキとしなければならないのかと常に困惑していたような気がします。外国のお祭りに混じってしまったような心地でした。あとSHIELDsって実は数人しかいなかったのだなと知りました。

 なぜ私がこのお祭り騒ぎに乗れなかったのかというと、政治について僅かな知識しかなく自分の支持層とかを特に決めて行ったわけではないというのも大きいですが、躊躇いがないということの怖さを感じたからでした。警官に掴みかかる人とか示威行動に出る人は、その多くが躊躇っていないように見えました。イキイキしていました。座り込んでぼそぼそと話し合いをしている人もいるんじゃないかな、と思いましたが私が見た限りでは見つかりませんでした。中心部は特にスピーカーから聞こえる演説やコールで静かに話なんてできる状態じゃなかったですし、腰を落ち着けられるような空間的余裕もほぼなかったです。
 なぜそんなに躊躇いがないのだろう、ふと座り込んだり、これでいいのか……と思ったりしないのだろう、というのが最後まで疑問でした。

 

たとえばの話、クラスで

 例えば中学とか高校のクラスで「いじめを根絶しましょう」とかそれに類する活動がおこったとします。
 そういう状況に直面したとき、私は「そうだ、その通りだ」と思おうが、「いや、別にあってもいいじゃん」と思おうが、一瞬ののち「本当に?」という躊躇が生まれるので、いじめの根絶に向けてせっせと活動に勤しむこともできず、かといって喜々としていじめっ子の取り巻きになることもできず下向いて俯くしかないというような感じになります。*1
 「俯いて何もしないのではいじめに加担しているのと変わらない」というフレーズがよく聞かれますが、確かにそうです。傍観することも一つの選択には違いないので。でもその選択に納得できているわけではない。脊髄反射的に納得したほうが楽なのは分かっている*2し、そうすれば、堂々と傍観していじめの片棒を担げると思います。なかなかそうできないから困っているのです。

 (堂々と傍観していじめの片棒を担ぐというのと、納得はしてないがそうするという区別をここでは前提しています。「」の中みたいなのはそれを認めず最も単純な主知主義をとる場合(「人はよいと思うことしかしない」*3のタイプ)で、私は最近そっちにあんまり興味が持てないのですが、ここは今回の主旨じゃないので保留しておきます。)

 

俯きがちな人

 どちらかと言えば私は、躊躇いなくせっせと行動に移すイキイキした人ではなくて、双方俯いたままぼそぼそと意思疎通し合えるような人がそばに居てほしかったのです。先の法案が出てきた時もいじめ問題が提起された時も。でも実際はそうならなくて、いつも最後は「おまえは同志か、それとも敵か」みたいな感じになりました。黙っていてもどちらかに振り分けられるので(先の「俯いて何もしないのではいじめに加担しているのと変わらない」なんてその典型ですが)、仕方がなく一時的にイキイキ活動することも多いです。デモで厚紙持った時とか。しかしそういう場合であっても表情筋は依然として死んでたのではないかと思います。狂っていると思いました。

 

 こういう俯きがちな人って、政治活動でも人付き合いでも、すぐ中断して逃げられるように軸足を残しています。だからどこか不格好で、完全燃焼という言葉に縁がなく、パッとしないという評価が集まることが多いだろうと予測できます。でもその中途半端というところに居直れるわけでもなく、何かに熱狂しようと夢見ており気まぐれで行動に出たりします。どうせ長くは続きませんが。

 逆に、なんらか人から支持を集める人は、必要なときに躊躇を捨ててイキイキとなれる人、あるいはそうした切り替えが狂気に取り憑かれることだはと思っていない人なのだと思います。支持を集めると言っても別に肯定的な反応だけを言っているのではなくて、あの黒バス事件の人(無敵の人)とか「日本死ね」の人とかの様子にも当てはまります。とてもイキイキしていなければできないことです。

 

 長々と書きましたが「俯きがちな人」「イキイキとなれる人」というのはわかりやすくするための粗雑この上ない図式です。万が一を考え予防線を張るなら、後者だけが狂ってるなんて言ってません。誰もが何かを選ぶ時は躊躇いを殺していわば方法的に狂っているのだけれども、どうすれば一回殺した躊躇いが完全には復活しないようにし、同じしかたで狂い続けられるのか私にはわからない、というのが今回の文章でいいたかったことです。

本当に困っている。だれか教えてください。

 

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 私が思いつくキーワードなんてたいてい誰かのパクリです。今回の「イキイキ」というのは以下の本から。 

デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

 

 あと、Amazonみてたらこんなタイトルの本がありました。読んでません。

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

 

 

おわりです。

 

*1:これは、マイノリティ差別をなくそうとする活動だとか平和運動とか容姿や学歴を鑑みることへの攻撃とか、過激派が存在する大体の領域で言えます。あと田舎に帰ると必ずある将来こうしたほうがいいとかの話も。挙げればキリがない。

*2:特にクラスという場所も最初から党派だったりキャラだったりでくっきり色分けされているので、そうしたものにはかれば自分の敵と味方は自ずと決まります。

*3:有名なのは『プロタゴラス』の中です